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「営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。」
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社会学の古典中の古典。
でも読む必要あるのかな?
内容は知っておくべきだけど。
註は多いし、わかりにくいし。
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これは幹で、種々の枝葉を付けた。幹を知るため買いました。ものっそ時間かかった、コレ読みにくい。でも読むべきかと思われる。
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キリスト教や社会学を学ぶ人にとっての必読書。ウェーバー自身はキリスト者ではなかったと言われるが、極めて「神学的」な内容を持っている。自らの救済を確認しようとする心理的駆動力に、近代資本主義の淵源を見ようとするスケールの大きさに圧倒される。しかし、本書の終わりの部分で述べられている、「精神のない専門人、心情のない享楽人。・・・」という有名な「ヴェーバーの予言」を、われわれ現代人は真剣に受け取らなければならないだろう。
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初めて読んだ時に鳥肌が立った1冊。この本を読むと、いかにいかに経済が宗教の影響をうけているかが分かる。ウェーバーは、この本の中で資本主義の発達を助けたのは一見その反対とも見えるピューリタンの経済倫理、すなわち禁欲主義の中にあったということを述べている。つまりこういうことだ。商売をしてもうけることは宗教改革の時代の前にもアジアなどのほかの地域においてあったし、営利欲はむしろピューリタンよりも彼らのほうがはるかにあった。しかしそのような状態の中で資本主義は生まれてこなかった。むしろ、宗教的倫理の厳しいプロテスタントの国の中から生まれている。それはなぜか。それは富をたくわえることを道徳的、合理的とみなす観念が発達したからだ、というのが主旨。思ったよりは難しくないので一読をお薦めする。
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自分の専門からは少し外れているが、禁欲主義と相反するはずの資本主義を関連してとらえることのできたウェーバーの視点に感銘を受けた。
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資本主義社会の発達はプロテスタンティズムの禁欲精神がもとになった。
・・・独りで読んでも絶対に分からない。ゼミで読んだがなんとか分かった程度。
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社会科学のドン、マックスウェーバーの代表作。プロテスタントの「予定説」という宗教的教義を資本主義社会の構造に、綿密な研究を元にダイナミックに結びつける。
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言わずと知れた社会学の基礎。しかし何でまたこの人の文章はこんなに分かりにくいんだろう。まだ英文で読んだ方がいい気がする。翻訳の問題なのだろうか?
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『プロ倫』。自分的には予定説の考えがいまひとつわからなかったけど、徹底的に資本を否定することで資本主義が生まれたとする説明がすごいと思った。
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買った本。読まなきゃならないと思って買った。仕事というものについてよくわかった。なんでこんなにたくさん働かなきゃならないのか、とかいうことの起源。
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ドイツの社会学者、マックス=ヴェーバー(1864-1920)の主著。1905年刊。プロテスタンティズムの倫理に基づく行為が、意図せざる結果、すなわち近代資本主義の発展への寄与を引き起こしたことを明らかにしたその思想は、唯物論に対して疑問を投げかけている。しかし彼は唯物論を絶対的誤謬であるとはしていない。
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働く、お金貯める。これも宗教(とは言わずとも、有る程度信仰心の要る作業)だったのだ。実際そうかはともかく(自分はそうだと思うけど…)、解き明かす道筋はドラマティック。
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どうやってそこまで調べたのか、と思う内容が多々。論法もお手本となる。歴史学者も社会学者も経済学者も無視できないバイブル
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まぁまぁかな◎ 高校時代の世界史で出てきてから、なんとなくずっと気になってて、やっと読んだ本(笑)
内容:
資本主義は、ただ合理化を図って営利を目的としているというものではない。そこには、稼ぎ働くということが倫理的な色彩を持って生活の原則となる、仕事を「天職」と考える、そのような「精神」があり、その精神こそが、資本主義の発達に寄与したと思われる。 それでは、その精神とはどのようにして生まれてきたのか。 それは、中世ヨーロッパ、カルヴィニズムにその答えを求めることができる。(そもそも、天職(Beruf)という言葉は、プロテスタントの影響が強い国でのみ、現在もその意味の言葉が残っている) 彼らカルヴァン信徒にとって、現世での労働は、ひたすら「神の栄光を増すため」のものであり、神が人間生活の社会的構成が彼の戒めに適い、その目的に合致するように編成されていることを欲し給うと考えられた。 このことによって、職業労働が、倫理体系の特徴的な部分となるにいたった。
ちなみに、似たような他の宗派においては、例えばカトリシズムでは、宗教的な意味においてすぐれて方法的な生活を送れる人間は修道士だけで、俗世間にその方法的生活を導入することはできなかった。ルッター派には、「懺悔」という考え方が残っていたため、恩恵論自体の帰結として、生活の方法的合理化を必至とするような組織化への心理的推進力を欠いていた。 このような他の宗教に比べ、カルヴィニズム、なかでも予定説は、首尾一貫したもので、卓越した心理的影響を持つものだった。 話を戻すが、カルヴィニズムにおいては、単なる享楽のための遊戯は認められなかったし、芸術も、支出をしなかった場合にのみ認められる状況だった。 人間は委託された財産に対して義務を負っており、「営利機械」として財産に奉仕するものとならぬという思想がある。財産が大きければ大きいほど神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを与える。 このようにして、利息したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、その生産的使用を、つまりは投下資本としての使用を促さずにはいなかった。
これらのことが、後の時代になって宗教的意味合いが薄れていくと、独自の市民的な職業のエートスが生まれた。このことによって、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会的機構を段々と作り上げていくことになった。
そしてまた、一度この形式が根付くと、今度は設けなければ彼らは経営を続けていけないようになってくる。すなわち、資本主義の社会機構が逆に彼らに世俗内的禁欲を外側から強制するようになってしまった。