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2014/08/12 19:38
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「鉄道と国家」という名著のある、真面目な鉄道研究者の紀行本ということで期待は高かったが、これは想像を超えていた。この手の書物はかなり読んだので、自分も知識としては相当あると思っていたのだが、カメルーンとかザンビアの鉄道と云われるとさすがに知らないとしか云いようがない。
鉄道ファンとしてかなり率直に感じられるところを書かれているようで、なかなかリアルだし、ユーモラスな表現が面白い。
2014/12/05 17:23
投稿元:
ボリビア、メキシコ、フィリピン、ボスニアやシリア・・・日本語の案内や紹介が、本でもネットでもほとんど見つからないようなところにまで乗りに行っているのがすごい。
地雷原を走るカンボジアの章が印象的だった。こうして外国人が鉄道に乗れるくらいには落ち着いても、たくさんの地雷はまだ埋まったまま。
そんな中、車掌が「屋根に上がってサンセットを見たくはないか」と誘ってくる。おそるおそる登った先に広がる光景に、著者は言葉を失う。緑の大ジャングルが、沈む太陽に赤く染められていく。日没の後は、青白い蛍の乱舞と満天の星。
平和・・・とか、大自然・・・とか、幸福、とか、そういった単語にはならない気持ちを抱いたんじゃないだろうか。
ただ、目の前の景色に胸を打たれるような思い。そんなものが伝わってきて、こちらまで厳粛な思いにとらわれた。
それにしても、英語も通じないようなところへよく行くなぁ。「なんとかなるさ」的なおおらかな旅行記で、おもしろかった。
2014/11/22 21:04
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新書に紀行文とは珍しい。
豪華クルーズトレインから現地人しか乗らないようなローカル線、列車の屋根の上まで人が溢れる長距離列車まで世界各国の列車乗車紀行
30年前、宮脇俊三が乗った列車が今では不定期運行になっていたり
世界では(特に南米では)思い切った鉄道改革をしている。旅客運行を廃止して貨物輸送に特化したり、旅客の定期運行を極端に少なくしたり、
上下分離でホテル経営会社が貸しきり列車を委託運行させたり
2024/06/25 06:21
投稿元:
990
これ読んで、この人の場合は鉄道だけど、何か見たいものがはっきりしてる人の旅って奥深くなるしそういう人の紀行文面白いなと思った。私も美術建築に興味なかったら行かなかっただろうなという所にも行ったし。
小牟田哲彦(こむた・てつひこ)
昭和五十年東京生まれ。早稲田大学法学部卒業、筑波大学大学院ビジネス科学研究科企業法学専攻修了。日本及び東アジアの近現代交通史や鉄道に関する研究・文芸活動を専門とし、紀行作品や論文を多数発表。平成七年には日本国内のJR線約二万キロを全線完乗。世界七十ヵ国余りにおける鉄道乗車距離の総延長は八万キロを超える。主な著書に『鉄馬は走りたい――南北朝鮮分断鉄道に乗る』(草思社)、『全アジア航路を行く』(河出書房新社)、『去りゆく星空の夜行列車』(扶桑社)、『鉄道と国家――「我田引鉄」の近現代史』(講談社現代新書)など。日本文藝家協会会員。
マチュピチュへの登山列車(ペルー)
クラクフから通勤電車で世界遺産巡り(ポーランド)
幻の湖を目指す中央アジアの小鉄道(キルギス)
ハワイへ行って汽車に乗る(アメリカ)
世界最高地点を行くアンデスの鉄道(ペルー)
“本家”オリエント急行に乗ったとき
(ハンガリー→オーストリア→ドイツ→フランス)
ヒマラヤの国際軽便鉄道(ネパール)
夜行列車でユーフラテス川を目指す(シリア)
昭和時代の日本へ(台湾)
ビコールトレイン往来記(フィリピン)
車窓に広がる地雷原(カンボジア)
ベールの向こうの旅順線(中国)
泰緬鉄道でミャンマーへ(タイ→ミャンマー)
線路を走る南米奥地のボンネットバス(ボリビア)
ブラックアフリカのジャングルトレイン(カメルーン)
内戦をくぐり抜けたバルカン半島のローカル線(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
テキーラ・エクスプレスの酔狂な一日(メキシコ)
家族で楽しむキュランダ高原鉄道(オーストラリア)
ベトナム北部のホテル専用列車(ベトナム)
知られざる豪華ディナー列車に揺られて(ザンビア)
世界の鉄道紀行 (講談社現代新書)
by 小牟田哲彦
世界中に約千ヵ所存在する世界遺産のうち、日本で常にトップクラスの人気を集めるのが、日本から遠く離れた南米ペルーのマチュピチュ遺跡である。海外の世界遺産を特集する雑誌には必ずと言っていいほどマチュピチュが紹介されているし、遺跡の全景を隣の山の上から見下ろした写真が表紙を飾ることも少なくない。 この山上の遺跡へは市街地から自動車道路が通じておらず、現代では珍しく鉄道が唯一の交通手段となっている。そのような立地だったからこそ、二十世紀初頭まで発見されず今なお解明されていない謎を持つ神秘の遺跡となり得たのであろうが、おかげでマチュピチュでは、観光客向けの専用列車が古くから運行されてきた。
しかも、マチュピチュ行き列車の始発駅があるクスコの街も、かつてインカ帝国の首都として栄えた時代の面影と、その後に侵入してきたスペイン人が建設したコロニアルな街並みとが見事に融和し、街並み全体が世界遺産に指定されている。つまりこの鉄道は、目的地(マチュピチュ) と起点(クスコ) の���方が別々の世界遺産になっている、世界でも珍しい路線なのである。
というわけで二〇〇七年(平成十九年) 八月、私にしては珍しく、妻と二人で東ヨーロッパまでやって来た。すでに日本人はポーランドの観光査証(ビザ) が不要となって久しく、出入国審査も簡便になっている。冷戦時代よりも観光地での英語の通用度は高まり物価も比較的安いが、観光で訪れる日本人は西欧諸国に比べればまだまだ少ないらしい。 世界遺産といえば風光明媚な自然や歴史を重ねた伝統様式の建造物群などが思い浮かぶが、中には人類が忘れてはならない負の遺産も含まれている。広島の原爆ドームもその一例だが、ヨーロッパの負の遺産といえば、アウシュビッツ強制収容所の右に出る場所はない。わずか半世紀ほど前、ここで百五十万人にも上る人々の生命が、無造作に奪われた。 アウシュビッツとはドイツ名で、ポーランドでの地名はオシフィエンチム。クラクフ中央駅から六十五キロ、地元客向けのローカル電車が一時間に一本程度の頻度で運行されている。
私たちは9時 15 分発のオシフィエンチム行き電車に乗った。東ヨーロッパの鉄道車両は冷戦終結から十年以上経ってだいぶ垢抜けてきた感があるが、この三両編成は共産主義時代に製造されたらしいポーランドの標準型二等電車。車体を明るい水色と黄色に塗り分けてはいるが、車両正面は無骨な顔つきをしているし、車内はやや 煤けた感じがして薄暗い。 窓枠の上に「車窓からの物の投げ捨て禁止」などのマークがステッカーとして貼られている。そのマークの真横に、ナチスのカギ十字を斜線で消して〝ナチス禁止〟と表現している落書きがある。ずっと以前から書かれたままになっているようで、無用の落書きとして消そうとした気配がない。
自由な旅行ができなかったソ連時代はもとより、ソ連崩壊によって独立した各国はなかなか日本に大使館を開設しなかったため、日本人観光客が入国査証(ビザ) を取得するにはモスクワか北京の大使館へ足を運ぶ必要があった。しかも、ソ連時代はソ連のビザだけで中央アジア全域に有効だったのに、独立後は当然ながら国ごとにビザを取得する必要が生じた。さらに、現地の旅行会社で全てのスケジュールを確定させて費用を事前に払わなければならず、原則として個人の自由な旅行は認めないというソ連時代のスタイルはそのまま継承された。ソ連崩壊によって、ロシア本体から切り離された中央アジアは、ソ連時代よりもさらに観光旅行の手間がかかるようになってしまったのだ。
だが、日本人を含めた外国人観光客を増やしたいこれらの新興諸国は、二十一世紀になってようやく自由旅行の環境整備を始めた。旧東側諸国以外からの直行便を設定したり、在外大使館を増やしてビザ取得要件を緩和したり……。もともと、日本人に根強い人気があるシルクロードの途上に位置していて世界遺産など観光資源が豊富なこともあり、近年は旅行先として中央アジアの人気が徐々に高まっているという。 その中央アジアで、地味ながら日本人が最も旅行しやすいのがキルギスという小国だ。この地域では唯一、いわゆる旧西側諸国民に対して観光ビザの取得を免除しており、日本人はパスポートだけあれば簡単に入国できる。知名度が低く、日本から��行便があるわけでもないが、ビザ取得が不要だと、隣国のウズベキスタンやカザフスタンへの旅行者が「ちょっと寄ってみようか」という気になるようで、外国人観光客は着実に増えているらしい。
駅舎に面した長大な一番線ホームにはレーニン像が建っていた。構内に留置されているのは濃緑を基調とする旧ソ連や中国など共産主義諸国の国鉄標準カラー、いわば「共産色」とでも言うべき地味な外観をした無骨な客車ばかり。モスクワなど他国への長距離列車も国内だけを走る短距離列車も、みんな同じ種類の客車を使用しているらしい。たまたま国内の北のはじっこにソ連国鉄の路線のごく一部が存在したがために独立の国有鉄道となったに過ぎないキルギス国鉄には、自国の標準時を鉄道にも採用したりラテン文字を併記するようになった隣のカザフスタンやウズベキスタンに比べて、明らかにソ連時代の面影が今も根強く感じられる。
各車両のデッキ付近では、サモワール(ロシア式の湯沸かし機) が湯気を吹いている。これも旧ソ連や中国など共産圏の客車に共通の設備で、乗客は自由にこの熱湯を使ってお茶やコーヒーを淹れたりカップラーメンを食べたりできる。ビシュケク第一駅の待合室の暖房といい、グラグラに沸騰したこのサモワールといい、これから外で泳ごうという旅客向けのサービスにはとても見えないが、昼夜の寒暖の差が激しいこの地域の夏には珍しくない光景なのかもしれない。
日本人にとって、海外バカンスの定番と言えばハワイが筆頭格であろう。マリンスポーツからゴルフやショッピングまで、年間を通じて何でも楽しめる世界的観光スポットだが、実はこの常夏の島で列車の旅も楽しめることを知る日本人は多くない。 だから、私がハワイへ行くと聞いた友人その他から、「お前がハワイへいったい何をしに行くのだ?」と異口同音に問いかけられた。汽車が走っていないところには全く関心がないと思われているらしい。確かに、弟が「ハワイで結婚式をする」と言って招待してくれたから行くことにしたわけだが、出発の日が近づくにつれて、ついでであるはずのハワイの汽車ポッポへの期待の方がどんどん膨らんでいった。
ハワイの鉄道として比較的著名なのは、オアフ島から飛行機で三十分のところにあるマウイ島のサトウキビ列車である。観光用に十キロほどの区間で運転しているに過ぎず実用の路線ではないが、蒸気機関車牽引の列車がほぼ毎日四往復も設定されていて、団体ツアーの島内観光コースにも組み込まれているという。
翌日は、オアフ島の保存鉄道を訪ねた。ワイキキビーチから車で三十分ほどの郊外へ出たエヴァというところにトロッコ列車の発着駅があるのだが、『地球の歩き方』にも載っておらず、マウイ島のSLに比べると知名度は低い。正午にワイキキ前のホテルからタクシーに乗ったら、運転手がこの鉄道の存在を知らず、運転手が私の所持する地図を見たり歩行者に道を尋ねたりして時間がかかった。ハワイの観光客向けタクシーでこういう経験をすることは滅多にないだろう。 マウイのSLは一人旅だったが、今日はホノルルで待機していた妻と娘が一緒である。生後八ヵ月の我が娘は、生まれて初めて乗る外国の列車がこのオアフ島の保存鉄道ということになる。叔父の結婚式で来たはずの異国の地で、何にも用事がないのにベビーカーごと汽車に乗せられ、おかしな父親の下に生まれたと思っているかどうかは、まだ 喋れないので定かでない。
ただ、エヴァの車両庫には、朽ちかけた多数の古典客車に混じって、一九〇〇年に製造された展望デッキ付きの特別客車が大切に保存されていて、こちらは毎月第二日曜日に限り、予約と特別料金で実際に乗車できる。ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニも乗ったとかで、文化財級のクラシックなVIP車両の旅を体験できるとあって人気が高いそうだ。あいにく、今日は第一日曜日のため車庫に眠っていたが、シックなダークグリーンの外観と、窓の外から覗き見えるマホガニーや 真鍮 を用いた重厚な車内を物珍しそうに眺める観光客の姿が絶えなかった。
そんなとき、先ほどの高級住宅地の中で、子供が白亜の邸宅から飛び出してきて、芝の上を走って我がトロッコ列車と競走を始めた。やや退屈していた乗客たちが、歓声を上げて応援する。途中までは子供の足の方が速かったと言えば、列車ののんびり具合が理解できるだろうか。快適な設備、派手なアクティビティー、そして優雅な結婚式場とも全く無縁だが、ハワイにはこんなところもあるんだな、と思わせてくれる二時間弱のオアフ鉄道紀行である。
富士山を高度の一目安とするのは私が日本人であるからだが、その富士より高い場所まで来ると、どうしても気になるのが高山病である。低地に住む人間が急に高地に上ったとき、気圧が低く酸素が少ない環境に身体が順応しない場合に起こる症状で、最悪の場合は死亡する。効果的な治療方法はない。『アンデスの高山列車』を著した宮脇俊三が、ペルー中央鉄道の乗車に際して最も恐れていた病気でもある。
私はチベットへ行ったときに高山病になったことがあるが、悪寒や吐き気にひどく苦しめられた。もう二度とあんな症状にはなりたくなかったが、「世界最高地点を行く山岳鉄道」の誘惑に負け、懲りもせずにこうして高山鉄道の乗客になっている。
16 時半を過ぎると、冬のペルーは早くも夕暮れの様相を呈してくる。山の影は広くなり、黄色い下草に覆われた草原は夕陽に照らされていっそう明るくなって、それから次第に紅く染まる。 16 時 56 分、久しぶりに鉄橋を渡り、長らく列車の左側を流れていたマンタロ川が右手に移る。左は岩壁が列車すれすれまで迫る。
ハンガリーの首都ブダペストには、主要なターミナルが三つある。そのうち、西側諸国への国際列車の大半が発着するのは「ケレティ」、すなわち東駅である。街の中心を流れるドナウ川の東側に位置していて、開業した一八八四年創建のクラシカルな駅舎を正面に構えている。
とはいえ、ホームに佇めば「オリエント」の雰囲気は感じられる。隣のホームには「バルト・オリエント・エクスプレス」という列車名を掲げたルーマニアのブカレスト行きが停車している。車両はドイツ国鉄や東欧各国の見慣れぬ客車が入り混じった混合編成だが、西欧諸国の明るい車両に比べてどこか垢抜けず、無骨な印象を受ける客車が多いと感じるのは、旧共産圏に対する私の偏見だろうか。 静かなホームに響き渡る構内放送は、イスタンブール行き「バルカン・エクス���レス」の発着案内を繰り返している。バルカン・エクスプレス号は、ハンガリーの南に隣接するユーゴスラビアの首都ベオグラードとブルガリアの首都ソフィアを経由する国際列車。ユーゴスラビアでは内戦が続いているが、今年一月に四ヵ月間の一時停戦が成立している。そんな国へ旅客列車が平然と運行されていることに、生まれて初めて日本から一人で出てきた私は驚きを覚える。
首都カトマンドゥをはじめ、ヒマラヤを望むポカラ、世界遺産でもあるブッダ生誕地ルンビニなど、ネパールという国には魅力的な観光地が数多く、年間を通して多くの外国人観光客が訪れる。ただ、それらの観光地の多くは東西に細長い国土の中央以西に集中しており、東部方面へ足を延ばす観光客は少ない。 そんな東ネパールに、ジャナクプル鉄道という、ネパール唯一の鉄道が走っている。 カトマンドゥの南東約百三十キロに位置するジャナクプルは、かつてはインドを支配するムガール王朝の支配下にあった。そのため、街の中にはヒンドゥー教の寺院が建ち、野良牛が徘徊し、マイティリー族という北インド系の人々が多く住むなど、インドの雰囲気が色濃く漂っている。カトマンドゥからの航空便やネパール各地からの長距離バスが発着する交通の要衝でもあり、ジャナクプル鉄道に乗る旅行者は必ず拠点とすることになるであろう沿線唯一にして最大の街である。
平屋建ての簡素な駅舎の中には、出札窓口が二つと小さな売店があるだけ。改札口はなく、ホームへは自由に出入りできる。夏は最高気温が四十度を超えることもあるためか、駅舎の中で日中を過ごす物乞いの姿が少なくない。
窓側以外の車内の客は、暑さに参っているのか、皆じっと黙っている。私の足元にしゃがみこんでいる老婆も、こっくり、こっくり。そのうち、サリーが乱れて胸がはだけ、しなびた乳房があらわになる。彼女はそれに気がつくと、慌てることもなく、けだるそうにサリーを直して胸元を隠す。そして、また眼を閉じて舟を 漕ぐ。車内を支配する時間の流れ方が、列車のスピードに合わせて遅くなっているように感じられる。
そうした線路際の民家は 茅葺きに土壁といった簡素な造りのものが多いが、その土壁に絵が描かれているのが列車の中から見える。農村生活の様子やヒンドゥーの神などの絵を家の内外に施すこの地方独特の民俗芸術で、ミティラー・アートと呼ばれている。描き手はもっぱら女性で、母から娘へと伝承されるのだという。
地元の人にとってもよっぽど気持ち良いのか、私の前の車両には屋根の上で大の字になって熟睡しているツワモノもいる。さすがにあれは真似できないが。 屋根の上を物売りの少年が行き交うのにも驚かされる。菓子などを入れた籠を肩から提げて、屋根から屋根へと飛び移っていく。走行中でも停車中でもお構いなしだ。列車が揺れてバランスを崩しそうになると、手近の乗客の肩に摑まってやり過ごす。転落しやしないかと見ている方がハラハラするが、当の本人は平然としている。 注意しなければならないこともある。雑木林の通過である。林の中では木の枝が車体ギリギリまで伸びている。屋根の上にも葉の生い茂った枝の塊が進出してきているので、雑木林に差しかかると、皆一斉に屋根の上��伏せてそうした枝をかわす。
洋の東西を問わず、河川に沿って走る鉄道は風光明媚な景勝路線とされる。列車の車窓は、悠然と流れる大河から峻険な渓谷の急流まで、多様に変化する河川を安全、かつ長時間にわたって観察するのに最適である。それが世界的な知名度を誇る名河川となると、物理的に視認できる美観がさまざまな歴史や物語を伴い、眺望の楽しみがさらに拡がる。そして、古代文明の多くが長大な河川流域を発祥地とするなど、豊かな歴史を持つ河川は世界に数多い。 紀元前三五〇〇年頃に世界最古の文明とされる古代メソポタミア文明を生んだのも、チグリス川・ユーフラテス川という二つの河川だった。「メソポタミア」とは「川の間の地域」というギリシャ語だそうである。
対岸には赤茶色の土が剝き出しになった台地が続いている。ときどき、古代の砦らしい城壁の痕跡が、その茶色い山肌に同化しながら丘陵の中腹に連なっている。この穏やかな流れはこの先のイラクへ、そしてペルシャ湾へと注がれていくはずだが、著名な国際河川にしては往来する船の姿が全く見えない。対岸にも人家は見当たらず、荒涼とした車窓が続く。 悠然とした川の蛇行にしばらく寄り添った列車は、やがて再びアラビアンナイトの世界に描かれているような波打つ砂漠の中へと戻った。中学生時代に世界史の教科書でその名を知った古代文明の生みの河川との対面時間は、およそ十五分間であった。
一等車の自席へ戻ると、近くに座っている若い男性と目が合った。イラク北部に住むクルド人だという彼は、かつてロンドンに住んでいたとかで、 流暢 な英語を話した。 クルド人は独自の国家を持たないまま中東各国に広く分布している民族だが、イラクでは湾岸戦争以前から北部地域がクルド人自治区とされている。この列車の終点カミシリは、そのクルド人自治区を通ってバグダッドへ直通する旅客列車への乗換駅でもある。車窓に映ったユーフラテス川だけでなく、この線路もイラクへと続いているのだ。
台湾の国鉄に当たる台湾鉄路管理局(台鉄) は、台湾島を一周する幹線と、そこから分岐するいくつかの支線から成り立っている。二〇〇〇年(平成十二年) 八月に初めて台湾を訪れた私は、観光はほとんどせず、 台北 を拠点にローカル支線ばかりを次々と訪ねた。 中でも、台北の南を走る 内湾 線と東を走る 平 渓 線は、 鄙びたローカルムードやノスタルジックな昭和日本の面影を色濃く残しており、いずれも台北から日帰り圏内にある。最近は、ローカル線の旅というスタイルが台湾人の間でもブームとなり、台北からの観光客が増えているという。
店頭で字を書いたり拙い中国語で一生懸命聞いていると、後ろから小柄なおじさんがニコニコしながら出てきて姿勢を正し、「いらっしゃいませ」と綺麗な日本語で私に話しかけてきた。それはそれは流暢な日本語に、こちらはきょとんとするばかり。「日本語がお上手ですね」と言うと、「私は日本語で教育を受けましたから」と、姿勢と笑顔を崩さずにそう答えた。結局、このおじさんにメニューを全部教えてもらい、空いているテーブルに座った。
齢を聞くと「大正十年生れ」と言うから、八十歳を超えている。台湾で生まれ育ったとのことだ��、二十四歳までは日本人だったわけで、それから半世紀以上経った今も、話す日本語は日本人の抑揚と寸分の違いもない。 おじさんは最近の日本の話題や、私の台湾旅行のことをしきりに聞いてくる。ただ、私は彼の発する日本語での話が聞きたくて、自分から積極的に喋るよりは相槌を打っていることの方が多かった。
台湾の鉄道の多くは日本統治時代に整備されたが、その中に「手押軽便線」と呼ばれた人車鉄道が存在していた。狭軌の線路上を、人が台車(トロッコ) を手で押して走るこの乗り物は、建設・維持費用の安さなどを理由に大正末期から昭和初期にかけて台湾各地に敷設され、最盛期には総延長が千キロ以上にもなった。戦後は交通の発達で次第に姿を消し、台北近郊で一部が観光用に残されているのを除き、全て廃止されてしまっている。
その駅舎内部の改札口の上部に、「 避 置圖」という地図が掲げられていた。〝敵〟の空襲時の避難経路が図示されている。今時、「空襲」という漢字表記を市民生活の中で目にする場所が、世界中で他にあるだろうか。台湾が、今も中国と対立関係にある厳然たる現実を、この掲示板は無言で語っている。
フィリピンという国自体は地理的には日本から近いところにあり、観光客の数も多い。マニラやレガスピはもちろん、鉄道沿線にも観光地は少なくない。なのに、旅行案内書では「治安に問題があり利用は勧めない」と書かれている程度で、鉄道はほとんど無視されているのだ。飛行機が飛んでいるし、鉄道と並行する道路にも速くて快適な長距離バスが頻繁に走っているので、わざわざ得体の知れない列車に乗る必要がないからだろう。 その得体の知れない鉄道に乗りたくて、私はマニラを訪れた。二〇〇〇年(平成十二年) 八月のことである。
その世界有数の物騒なカンボジア鉄道が、テレビ朝日系列でほぼ毎晩放送されている『世界の車窓から』に登場したのは、一九九九年(平成十一年) 秋のことだった。かつてタイとの直通列車が走っていたシソポン~バッタンバン~プノンペン間三百三十八キロ、上越新幹線の東京~新潟間にほぼ相当する距離を一日半かけて走る模様が、半月以上にわたって放映された。当時、この番組を見ていた私は、いつかカンボジアを旅することがあったら、アンコール・ワット遺跡を見るだけでなく、このカンボジア鉄道にも乗りたいと思っていた。 ただ、未だ政情不安だった放映当時と異なる現在でも、警護などなく一人で列車に乗る私にはとても真似のできない点がある。それは、プノンペン行きの上り列車に乗車していることだ。放送時の旅客列車は、終点のプノンペンには日没後の午後9時過ぎに到着している。
中国東北部随一の港町・大連 から南西へ約三十キロ、 遼東半島の南端に、 旅順 という港町がある。日清・日露戦争の戦場となった場所で、とりわけ広瀬中佐が散華した旅順軍港閉塞作戦、日露両軍が死闘を繰り広げた二〇三高地の戦い、あるいは乃木希典 将軍とロシアのステッセル将軍が会談した 水師営 の会見など、日露戦争の戦跡地として戦前から日本人には馴染みの深い土地でもある。清朝末期から北洋艦隊の本拠地として整備されていた旅順は、ロシアに戦勝した日本が遼東半島を関東州として統治した四十年の間に軍都として、また観光地・保養地として発展した。第二次大戦後はソ連の軍政を経て、新中国の下でも重要な軍港であり続けた。 このように、旅順は近代以後、主は変わっても常に軍事都市としての性格を帯び続けてきた。そのため、改革・開放政策が進行して外国人の中国旅行の自由度が高まっても、旅順は依然未開放のままであった。
中国という国は、今でも全国各地を外国人が自由に旅行できるわけではない。「未開放地域」が全国に存在し、外国人は開放地域にしか入れないという建前になっている。だが、中国で発行されている地図には、開放地区と非開放地区の境界線は書いていない。
「Death Railway(死の鉄道)」──俗称ではなく、本当に地図や標識にこんなおどろおどろしい名称で表記され、地元住民からもそう呼ばれている鉄道がタイにある。第二次世界大戦のさなか、日本軍が隣国ビルマ(現ミャンマー) へ通じる軍用鉄道として、多数の犠牲者を出しながら突貫工事で建設した歴史から、そんな呼ばれ方がされるようになったのだ。当時、日本はこの鉄道を「 泰緬鉄道」と呼んだ。
シヴィンガニの村を後にして、再び無人の山峡を走る。 13 時 13 分、次のヴィラ・ヴィラで半数近い乗客が下車し、代りに学校帰りらしい小学生の女の子たちが多数乗ってくる。彼女たちは三十分ほど乗って 13 時 51 分、次のパフチャで下車。列車は二日に一往復しかないのに、列車のない片道の通学はどうしているのだろうかと思う。
彼らにとって日本とは、スペイン語をきちんと話せる日系人か、優れた精密機械や自動車製品などをイメージさせる存在であって、私のように日本から来た生身の日本人では、逆になかなか日本という国をイメージしにくいようだ。
14 時 49 分ティン・ティンに到着。がらんどうの駅舎の中から木が生えている、化物屋敷みたいな駅舎だ。ここまでコチャバンバ以外に有人駅は一つもなく、途中の駅舎はどこも廃墟と化したところばかりである。
頭上に時計塔が聳え立つ巨大な駅舎入口の正面に、英仏両語で「ドゥアラ中央駅」と掲げられている。西アフリカ諸国はフランスの植民地だった名残で第一外国語をフランス語とする国が多いが、カメルーンは国土の一部がイギリス領だったため、英仏両語が公用語とされている。英語を第一外国語として学んだ標準的日本人にとっては、ひとまず英語が通用する余地があるという点で有難い。
もっとも、彼に限らず、車内の乗客たちからも、一人だけ肌の色が明らかに異なる自分に物珍しげな視線が送られていることは容易に察せられる。同じアフリカでも大都市の街路を歩いているだけでは特に意識しないが、黒人以外の外国人が滅多に利用しない地元客向けの公共交通機関に紛れ込むとこうなる。アジアや欧米を旅しているときにはほとんど感じられない、アフリカ独特の雰囲気だ。
バッサから単線になり、車窓も市街から緑の大地へと変わった。そのうちに鬱蒼としたジャングルの中へ進入する。広々とした眺めに接して気分がようやく落ち着いてきたが、車内ではバッサから乗った旅客たちの談笑やフランスパンを売り歩く女性の売り声が絶えない。駅の喧噪がそのまま持ち込まれた感がある。
一九九五年���春に〝本家〟とでも言うべきオリエント急行に乗ったとき、始発駅のブダペストで隣のホームに停車していたのは、ボスニア紛争中のユーゴスラビアへ向かう急行列車だった。内戦や独立紛争が続いた一九九〇年代のバルカン半島は、とても旅行などできる場所ではなかった。 その後、二〇〇六年にセルビアとモンテネグロが分離し、旧ユーゴスラビアを構成していた国家は全て独立した。独立国相互が今も仲直りしたわけではないが、ようやく、外国人観光客がバルカン半島を平穏に訪れることができるようになった。もともと、海あり山ありの自然景観から中世以降の史跡が多いなど、観光資源が豊富な地域である。
6時過ぎに個室のドアがノックされ、モーニングコール。帰路のハノイ行きチケットと真っ黒なベトナムコーヒーが相次いで運ばれてきた。エアコンがよく効いている車内では、ホットコーヒーが美味しい。
今夜は四人用個室の相部屋で、私の寝台は上段。下段に若い女性客が一人で乗っている。車内の接遇サービスは欧米人の富裕層を念頭に置いているはずだが、見知らぬ男女が同じ個室で相部屋になるのは、こんなところまで男女平等を徹底する共産主義国の鉄道らしい。
今夜は四人用個室の相部屋で、私の寝台は上段。下段に若い女性客が一人で乗っている。車内の接遇サービスは欧米人の富裕層を念頭に置いているはずだが、見知らぬ男女が同じ個室で相部屋になるのは、こんなところまで男女平等を徹底する共産主義国の鉄道らしい。
しかも、アフリカ諸国の大半は一九六〇年代までイギリスやフランスなどヨーロッパ各国の植民地だったため、独立後の現在でも英語やフランス語を公用語とする国が多い。日本人は「外国へ行ったら日本語は通じない」という意識を当然のように持って世界中を旅しているが、国際共通語としての地位を持つ英語やフランス語を母語とする人たちは、外国への観光旅行であっても、自分の母語が通じないという状況を望まないらしい。その点でも、英仏両語のいずれかが公的に通じるアフリカ諸国は、遥か東方のアジアより手軽な旅行先に感じるのかもしれない。 そういうわけで、実際にアフリカに行ってみれば、ヨーロッパからの旅行者が各地に大勢いて、彼らの高い要求レベルに応える旅行サービスを提供する観光産業がある。鉄道もまた然りで、世界一の贅沢列車として名高い南アフリカのブルー・トレインはもとより、最近では同じ南アフリカでロボス・レイルという豪華列車も人気を集めている。
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