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有名作品をいくつも上梓している貴志祐介さんの小説の書き方講座です。重要なのは面白いかどうか、必要のないところは削りまくれなど以前読んだスティーブン・キングの『書くことについて』と類似している部分もありましたね。
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"小説家を目指す人への指南書。
本書で紹介されている本をまず読む。
著者の作品である 黒い家 を本日購入、読み始めたところ。
素直に読者として物語に引き込まれてしまっている。
当初は、本書にあるような日本語の使い方や会話文、間の取り方など意識して読みたいと思っていた。そういえば冒頭に「ディバイダー」という文房具が登場するが、私は何のことなのかわからない代物だった。
本書のどこかに、無駄に難しい漢字やわかりにくい小道具を登場させ読者に疑問を持たせてはいけないような趣旨が書かれていたが、このディバイダーもそれにあたりませんかね?とおもいました。
と、書いたものの、ディバイダーという文房具がこの作品で2回登場した。(まだ読中だが・・)保険業界ではごく当たり前の文房具ということがわかってきた。"
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好きな作家さんの小説講義。先日読んだ、大沢在昌の同様の作品が面白かったから、それならこちらも、ってことで入手。ってか、初めて書店に並んだときに一瞬気になったんだけど、まあ良いかと思ってスルーしちゃってたんだな~。危なくそのまま読み逃すところでした。でも、書いてある内容は概ね大沢論と変わらず、要約すると殆ど同じなんじゃないかという印象。要は、エンタメ作品の作り方は、人によってそんなに大きくは違わないってことなんですね。当たり前か。何よりも、積読状態の貴志作品を、早く読みたくなりました。
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小説家を目指す人に、ストーリーから内容、作者の体験談までを分かりやすく、噛み砕いた表現で書かれた本です。とても読みやすいです。
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アイデア、プロット、キャラクター、文章作法、推敲、技巧、とひととおり全て網羅されています。小説作法を広く眺めながらも、要所を衝いて、端的に短くアドバイスをくれる体裁です。
そこは、何作か小説を書いたことがある方ならばピンとくる中身だと感じられるでしょう。さらりと軽い解説文の中に、抑えるべきポイントを教える箇所が一文だけ輝いている感じなのが多いのですけども、それで十分察することができるような上手い解説ですし、逆に無駄なく理解も進むと思います。僕はまさにそうで、「そうか、これはこういうことだよな」と瞬時に考えが改まるところが多々ありました。
しかし、僕はホラーもミステリーも最近は読まなくなりましたし、書くほうでもそのジャンルは書かないので、たとえば「トリックをこしらえて」との記述からは具体的なイメージは湧きません。トリック作りと似たような苦労を執筆時にしているとは思いますが、殺人事件のトリックをこしらえるなんてトリック周辺の知識もないですからまったくわからない。本書ではトリックのつくり方を詳細に教える部分は残念ながらありませんでした(というか、企業秘密レベルですよね、こういうのは)。トリック作りに難儀している人には肩すかしかもしれませんが、その他の小説作法に「なるほどな」と頷けるアドバイスが多かったので、やっぱり広義のエンタテイメント作品に共通する部分をまずわきまえたいアマチュアには強くお薦めできます。
あと、新人賞を獲りたい人は、応募する賞の過去受賞作を片っ端から読みなさい、とありました。大学受験で過去問をやるみたいなものだ、と。僕は応募する賞の過去作って読んだことがないですねえ。傾向と対策がない。短編の賞に応募するので、受賞作が書籍化されていないのが面倒くさくなる最大の理由なのですが、これじゃいけないかな……。大学受験のときも過去問やらずにきたような……。
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タイトルから「エンタメ全般」をイメージしてしまうが、小説、とりわけサスペンス、ホラー、SFジャンルの書き方について、新人賞選考委員であり、新人賞受賞者であり、数々のヒット作を世に出してきた貴志さんの立場からのアドバイスが記されている。
映画も漫画も演劇も音楽も、あらゆるメディアを漁って貪欲にアイデアを盗んで自分の作品に注入せよ、と訴えているので貴志さん的には「エンタメの作り方」としているのだろう。
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SFもミステリーも書く貴志祐介の、売れる小説の書き方本である。
全て、なるほどと納得できる。
参考としてさまざまな作家に言及しているが、かつてよく読んだ筒井康隆や平井和正が登場して嬉しかった。
自分で、小説を書くことはないが、とても参考になった。
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アイデアの生み出し方やプロット作成までの過程、文章力など、小説を書いてみたい人はもちろんのこと、クリエイティブ産業に将来携わりたい人向けの指南書である。
まず、何事も作品を作り上げるうえで、アイデアを考えなければならない。本書で著者が、小説は妄想である、と断言するほど、作り手側の創造力が常に求められる。そこで、著者は普段から「もし〜なら」と、日常のあらゆる場面でアンテナを張るべきだという。そのため、アイデア用のメモ用紙を常に常備して、思い浮かんだら即書き記すことをすすめる。新聞やテレビ、さらに既存の映画や漫画など、あらゆる媒体を通じて、これは使えると思うものは主体的にに取り入れるべきである。ただし、アイデアの中には、消費期限があり、いつまでも通用するとは限らない。そのため、アイデアというのは、流動的であることを心がけるべきである。その意味で、古典作品のネタを借用するのは悪いことではないし、換骨奪胎とあるように、むしろ、積極的に利用していい。
小説家を目指す人のなかには、執筆に専念する為に、仕事を辞める人がいる。しかし、著者は社会との接点という意味で、職場(アルバイトも含めて)に所属するのを推奨する。なぜなら、組織内での人間の原理や心理を観察できたり、また、その業界でしか知られていない特定の用語や専門分野が、創作につながるかもしれないためである。以上の理由から、仕事は続けるべきである。
アイデアがある程度まとまると、次はプロット作成へと移行する。プロットを考えるうえで、作品の舞台と人物像には特に注意を払う必要がある。舞台を考える際、架空の世界でも問題ないが、現実世界との接点があると、作品によりリアリティが増し、読者がその世界観に没入しやすくなる。人物の名前や性格についても、なんでもいいが、できる限り多くの読者が読める名前で、キャラクターに共感できる(とくに主人公)設定にしなければならない。そうしないと、読者が読み進めるうちに、感情移入できなくなる。このように、作品と読者との距離感を想定して試行錯誤することがポイント。
ストーリーにおいても、物語が淡々と進むだけでは、読者は読む途中で飽きてしまう。そこで、著者が提言するのが、ある一定の段階で対立軸を設けることだ。そうすることで、誰が敵で味方であるのかなど、頭の中で整理できる。
ここまで構想すると、いよいよ文章を書く段階になるが、そもそも小説における文章力とは何か。それは、読むスピードだと著者は考える。そこで絡むのが漢字の使用だが、漢字を濫用すると、かえって読者の読むスピードを阻害してしまい、読者にストレスをかける。そのため、読者がすらすらと読める文章にすべきだという。これ以外にも、好きな作家の作品の1行目を研究したり、膨大な数の小説を読んで、語彙力、技巧を培うことは、作品の完成度を高めるうえで必須となる。作品内の会話に関しても、過剰な説明口調で情景を表現するのは物語が白けてしまうので、その塩梅も注意すべき。
その後、いったん文章を書き終えたら、推敲にとりかかる。この作業は、油絵のように、何度も修正するイメージで取り組む。推敲を重ねるほど、よりよい文章へと昇華する。具体的には、読者が疲れない構成になっていないか、読者の興味につながるように文に区切りがついているかなどである。このように単に文の表現だけではなく、作品の構成上、読者を楽しませる工夫がなされているのかを見直す。そのうち、不必要だと感じる部分があるかもしれない。その場合、思い切って削るのだ。これは推敲のみならず、それ以前の作業においても共通する。欲張ってあらゆる要素を取り入れると、かえって作品のバランスが悪くなるので、捨てる勇気は創作活動で重要な心構えだ。
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小説家デビューを目指す人へ向けた本であるが、単純に読んでいておもしろい。
一冊の中にどんな工夫が凝らされ、どういった技法が用いられているのか。今後小説をより多くの視点から読み解くことができるようになったと思う。
著者の貴志祐介が自分の作品を例にあげて解説しており、著者の作品はほとんど読了しているので、作品誕生のきっかけや、裏話も聞けておもしろい。
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換骨奪胎という言葉があるように、古人の着想や形式をもとにして、自分なりに新しい作品を作ることは、芸術手法として認められていることなのだ。明らかな前例がある手法やトリックも、自分なりに咀嚼し、新しい作品に昇華できているのであれば、少しも問題ない。
ジャンルやメディアを問わず、多くの前例(作品)にふれておくことは、クリエイティブを志す人間には大切なことだ。いつか必ず血となり、肉となる。
当時(『黒い家』)の選評や感想をふり返ると、「人間の怖さ」を描いた点が高く評価されたことに加えて、知られざる生命保険業界の事情を盛り込んだことが、多くの読者の関心を引きつけたことがわかる。
実際、ミステリの登竜門である「江戸川乱歩賞」では、〝他の人が知り得ない業界の情報を取り入れること〟が必勝法のように言われていた時期があった。情報小説と呼ばれるジャンルがあるが、フィクションであっても、一般的にあまり知られていない世界をリアルに描写することは、それだけでひとつのエンタテインメントになり得るということだ。
その点、職業というのは遍く、一般的には知られていない情報の宝庫である。
生命保険業界で一例を挙げれば、「死因コード」というものが設定されている。死亡保険金の申請時に社内で用いる書類の中に、「死因」を記す欄があり、それぞれのケースに相当するコードを記入するのだ。新人時代、そのコード一覧を見て驚いたことがあった。
生命保険会社では、病気や事故、自殺などありとあらゆる死因を想定しているが、そのなかには「原子力事故」や「宇宙船事故」、さらには「核戦争」といったものにまでコードが割り振られていた。現実世界でこうした単語との接点を得ることは、非常に新鮮な体験だった。
生命保険にかぎらず、どの業界にもその世界ならではのルール、約束事などがある。それは基本的にはその現場にいる人間しか知り得ないことだから、一般の人にとって物珍しい情報がたくさん存在するはずだ。
情報面を意識するあまり、説明過剰になってはいけないが、他人があまり知らない専門分野を持っていることは、小説家として大きな強みとなる。これは作品に〝売り〟を設ける手っ取り早い方法ともいえる。
その意味で、エンタテインメント作家を目指すのであれば、社会との接点を持つことは不可欠だと私は思っている。本書を手にした方のなかには、いま現在、なんらかの仕事に就きながら小説を書いている人も多いと思うが、職場は最高の情報源であるということをぜひ意識していただきたい。
まだ学生の立場であったとしても、アルバイトの目線から見た職場を舞台に生かすことは可能だし、そこに出入りするさまざまな人たちを観察することで、キャラクターづくりのヒントが得られるかもしれない。
エンタテインメントには〝推進力〟を持つエンジンが必要である。それは本格ミステリであれば「なぜだろう?」と思わせる仕掛けであり、ホラーであれば「どうなってしまうのか?」と思わせる演出だ。それが読者にページをめくらせる原動力となる。
長編小説の場合は、そうしたエンジンが複数必要であると私は考えている。物語の全体を牽引する大きなエンジンと、要所で作動する〝補助ブースター〟だ。
ラストまでに通底する大きな謎(大きなエンジン)は不可欠だが、それだけでは不十分だ。長編小説は中だるみが生じてしまいがちなので、適宜、小さな謎を仕掛けることで読者の関心を引き寄せる工夫が必要になる。予期せぬトラブルを発生させたり、主要人物の生い立ちの謎に迫ったり、全体のストーリーを崩さずに寄り道をする方法を、ぜひプロットの段階で意識してみてほしい。
それらが有機的に連携したとき、初めて読者に〝寝食を忘れて一気読み〟という体験を提供できるはずだ。
物語にはコンフリクト(競合、対立、衝突)が不可欠である、と小説作法において昔からよく言われる。仲の良い若者たちが手を取り合って談笑しているだけの物語では、やはりエンタテインメントとして成立しにくい。人vs人、あるいは組織vs個人、問題vs困っている人……などなど、最初にわかりやすく対置することで、読者の意識に関心の下地が生まれるのだ。
逆にいえば、プロットを立てるうえで、こうした対立構造を明確にしておくことこそ、ブレないストーリー作りのコツともいえるだろ。
初対面の相手と話す際は、「政治」「宗教」「プロ野球」という三つの話題は避けるべきだと言われる。これらは人それぞれ立場や見解が異なるため、主張が食い違って揉め事の原因となるからだ。原発の是非などもこれに該当するだろう。
同じように、小説にもあまりふれるべきではない題材というのがあるのではないか、という疑問を持つ人もいると思う。フィクションだからといって、意見が分かれやすいテーマについて無遠慮に語ると、一定数の読者から強い反発を受けるのではないかという懸念である。
しかし私は、小説にタブーはないと考えている。
社会派の小説として明確なビジョンを持った作品であれば、あからさまな政治的主張が含まれていたとしても、小説としては成立する。
こうした主題に気を遣うよりも、素人探偵に対して、誰もが協力的で素直に話をしてくれたり、行き詰まったところで事件のカギとなる証拠や証人が都合よく現れたりするような展開のほうが、よほど問題である。
ある意味では、プロットを肉付けしてく作業は、小説を執筆する作業そのものであり、それまでに得た知識や体験が大きくものを言うはずだ。この際、自分にとっては当たり前の日常業務が、他人から見れば興味深い情報の宝庫あり得ることは、前述した通りである。
少々極端な例になるが、印象深いのがフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』だ。
これは一九六〇年代初頭のフランスを舞台としたサスペンスで、大統領暗殺を企てる武装組織が雇った暗殺者「ジャッカル」と、それを阻止しようとするフランス官憲の追跡を描いた物語である。作者のフォーサイスは、もともとジャーナリストだった人物で、実際に六〇年代初頭にフランスに駐在していた経験が、存分に生きている。
この作品から感じられるのは、優れた物語の世界観には、必ず〝構造〟や〝論理〟があるということだ。たとえば現実社会の根底には経済があり、そのうえに政治や文化が���っかっているのだとよく言われる。小説もまた、論理的な骨格のうえに構築されていなければいけないことが、この作品から読み取れる。
フォーサイスはジャーナリストとして得た知見をベースに、国際政治の非情なシステムを据えている。国家が国益を追求する際に、なおざりにされる個人の幸福。それゆえに生まれる軋轢や葛藤をきちんと描いているからこそ、大きな感動が生まれる。もし、人間ドラマだけを重視して葛藤を描いても、これほど読み手の心を動かす作品にはならなかったに違いない。
多くの作家は、理に偏りすぎることを、〝頭でっかち〟ととらえ、好まない傾向がある。たしかに、理屈ばかりこねていても面白い作品は生まれない。だが、主人公の心情を描くことが主な目的であっても、その根底には論理が不可欠だ。それがないまま、多くの人物が登場して社会を揺さぶるようなストーリーを展開しようとしても、まるで骨のない軟体動物のようにぐにゃぐにゃなものになってしまう。
また、悪役とは少し異なるが、いわゆる〝奇人変人〟をいうのも、エンタテインメントと相性のいい存在だ。おかしな人物を上手に造型すれば、ストーリーにアクセントをつけやすく、読者に大きなインパクトをあたえることができる。本格ミステリによく登場する、妙に浮世離れした探偵などはその好例だ。
しかし、インパクトを重視したいからといって、常識からかけ離れた奇人変人ばかりが登場する作品は考えものだ。変人キャラが生きるのは、あくまでも多くの常識人に囲まれているからである。周囲の常識人がその人物の奇行に対して呆れてみたり、辟易したりするからこそ、読み手の共感を呼び込むことができるのだ。
ミステリにおけるキャラクターの配置には、〝ワトソン役〟という定番のポジションがある。これは言うまでもなく、シャーロック・ホームズの相棒としてお馴染みの、あのワトソン博士のことだ。
『硝子のハンマー』に始まる防犯探偵・榎本シリーズでいえば、純子というヒロインがこれに相当し、物語のなかでは榎本の傍らでワトソン役を担っている。これは物語をテンポよくまわすため、そして読者の共感を得るために、非常に重要な役どころだ。
このワトソン役を設定する際にも、いくつかのルールが存在する。
まず、知識レベルが読者と同レベルであり、目線がやはり読者と同じレベルにあり、探偵役に対して素朴な、ときに愚にもつかない質問をする。いわば、作中における読者の代弁者としての役割を果たすのだ。
もしも、ワトソンがホームズと同じくらいのキレ者で、負けず劣らずの名推理を披露するなら、ふたりの推理や会話はどんどん先走っていき、読者は置いていかれてしまう。それではエンタテインメントとして成立しない。
探偵役は個性的な人物が多いから、それとは対照的にワトソン役は、ごく普通の常識人であるべきだ。読者との橋渡し役として機能させるためには、探偵のおかしな言動に対し、読者に代わってツッコミを入れたり、読者と同じ目線で戸惑ったりしなくてはならないのだ。
プロットも完成し、いよいよ執筆開始。しかし、やる気満々でパソコンの前に座ったものの、一向に筆がはかどらない。
こんな経験はプロでも��ずある。文章を書くコンディションというのは、さまざまな要因が作用しあって形成されるものである。だからこんなとき最も大切なことは、なぜ書けないのか、筆の進みを阻害している原因を、大雑把にでも考えてみることだ。
<中略>
また、これから書こうとしている内容に対して、納得できない部分があったり、ぴったりした書き出しが決まらなかったりすることもあると思う。その場合は、あとで削除することを前提に、とにかく仮置きのつもりで書き始めてしまうことを勧めたい。とりあえず筆を進めているうちに、違うパターンのアイデアを思いつくなど、何らかの突破口が見えてくることもあるのだ。
あるいは、ボトルネックになってしまった冒頭部分を飛ばして、書きたいシーンから手をつけてしまう方法もある。こういった融通が利くのは、パソコンで執筆する大きなメリットである。
はっきりした問題がないのに筆が進まない場合、心理的な障害があると考えるべきだ。水泳の飛び込みにたとえると、飛び込み台に立った瞬間こそ、もっとも心理的な障害が大きく作用するもの。飛び込んでしまいさえすれば、あとはすんなり泳ぎ始められることもあるのだ。
また、誰しも新しい作品に着手する際には、「さあ、これからどれほど面白い小説が誕生するだろうか」と、期待に胸を膨らませるものだ。しかいs、得てして書き進めるうちにその期待感は萎んでいくものである。そこで直面する失望感で、書くのを止めてしまうことも珍しくない。その意味では、執筆前に勝手に盛り上がって幻想を膨らませすぎないこと、というのも後々、筆を止めさせないコツである。
ミステリにかぎらず、エンタテインメントではたいてい、大なり小なりなんらかの謎が提示される。たとえばホラーであれば、「なぜこんな奇怪な現象が起こるのか」という謎が、恋愛小説なら「なぜ愛し合っていたはずの彼女は自分のもとを去ってしまったのか」などの謎が設定され、それがストーリーの推進力となるわけだ。
いずれも主人公が真相にたどりつくまでが面白いのだが、なかにはそのプロセスが強引すぎて、予定調和とご都合主義のオンパレードになっている作品も少なくない。読み手には一目瞭然でも、書いている本人にはなかなか気づくことのできないものなのだ。
たとえばミステリ物の二時間ドラマを見ていると、刑事が聞き込みに行った先々で、周辺住民や関係者がペラペラと有力情報を教えてくれるシーンをよく見かける。ときには、もう何年も前のできごとについて聞かれているにもかかわらず、昨日の話のように明確に証言してくれたりする。
現実世界でそんなことがあり得るかというと、それは「NO」だ。相手が刑事であるとはいえ、見知らぬ二人組が突然訪ねてきて昔のことを根掘り葉掘り聞かれたら、普通はもっと警戒するだろう。事件とのかかわりあいを恐れて口を閉ざす人だっているかもしれない。ところが、どんな難事件でも二時間以内に解決しなければならないため、都合よく情報が提供され、捜査はつねにとんとん拍子に進捗していく。あえてそこにハードルを設けて、ご都合主義に陥らないよう配慮しているドラマは質がよい。小説にしても同じだ。
また探偵ものなどにありがちなのが、たまたま主���公が遭遇した日常の小さなエピソードが、事件の謎を解く大きなヒントになっているパターン。これもやはり、ご都合主義と言わざるを得ない。
もちろん、フィクションだから現実と同じような捜査手順をいちいち書く必要はない。読み手に取ってテンポのいいペースを守るために、話をショートカットさせるのはありだろう。しかし、偶然に頼りすぎる展開はリアリティを損ない、読者を興醒めさせることになる。
主人公が情報を得る過程で、何らかの偶然や幸運に助けられることがあってもいいが、その場合は〝何がラッキーだったのか〟を慎重に考慮して設定するべきだ。たとえば、核心を突く情報がたまたま耳に飛び込んできた女子高生の会話だったというのは、あまりにも神がかり的なラッキーである。それよりは、どんなに必死に調べてもわからなかった情報が、燈台もと暗しで、意外に身近な人物から得られた、などと言う少し遠回りなラッキーのほうが、自然に受け止めやすい。
エンタテインメントにおいて重要なのは、やはり面白くて疾走感のあるストーリーだ。ストーリーが描ければ、他にどんな瑕疵があったとしても、自ずと読み手はついてくる。そして、そんなストーリーを生み出すために重要なのがアイデアである。
しかし、新人賞の選評などを見ていると、「アイデアは悪くないが、面白みに欠ける」と評される作品が少なくない。本当にアイデアに問題がないのだとすれば、なぜ高評価が得られなかったのか? たいていの場合、その原因は「読者が感情移入できない」ことにある。つまり、物語の世界に引き込まれないのだ。
数年前に、こんなアメリカ映画を観たことがある。登場するのは、ヒッチハイカーを乗せては殺すことを繰り返している長距離トラックのドライバーと、運転手を殺しまくっているヒッチハイカー。後者が前者のトラックに乗り込んだら、という内容のホラーだった。
設定だけを見れば、いかにも何かが起こりそうな気配が漂い、なかなか面白そうに見えるかもしれない。ところが、この映画は全然面白くなかった。なぜなら、主要キャラクターのふたりがいずれもシリアルキラーであるため、まったく共感できなかったからだ。
どちらの人物にも感情医移入できないから、どちらかがピンチに陥って殺されそうになってもハラハラすることはないし、優勢になってもワクワクしないのである。結果、最後まで淡々と展開を追うだけで、心を揺り動かされることはほとんどなかった。まさに「アイデアは悪くないのに……」といった状態だ。
読者に感情移入してもらうためには、読者と立ち位置が近いキャラクターを設定すべきだろう。人は嫌いなタイプの人間や、自分とはかけ離れた存在には、なかなか感情移入することはできない。
たとえば松本清張が遺した傑作のひとつである『告訴せず』は、持ち逃げした〝ヤバい金〟で小豆相場に手を出すなど、破滅型のキャラクターを主人公に据えた作品だ。普通に考えれば悪党である主人公には感情移入しにくいはずなのだが、彼が随所であらわにする生々しい欲望は、人間なら大なり小なり胸に秘めているものばかりで、ついつい共鳴してしまうのだ。少なくとも私は、ハラハラドキドキしながら、彼の運命を見守った。持ち逃げした��が不正な選挙資金であったという設定も、感情移入を促す仕掛けのひとつだったのかもしれないと、いまさらながらに感心させられる。
自作でいうと、『悪の教典』も、道徳観に欠けるキャラクターを主人公に据えている。蓮実聖司が稀代の殺人鬼でありながら多くの読者の支持を得ることができたのはなぜか。これはキャラクターと善悪は関係ないという、ひとつの実証になるのではないかと思っている。
不思議なもので、女性というのは無能な善人よりも、有能な悪人に惹かれる傾向があるようだ。少しでも強いオスを求める、生物としての本能に根ざすところがあるのかもしれない。
『青の炎』は、いつか挑戦したいと思っていた「倒叙ミステリ」に取り組んだミステリだ。ヒントとなったのは、小学生のころに学校の図書館でたまたま手にした、F・W・クロフツの『クロイドン発12時30分』だ。
この作品は間違いなくミステリ史に残る傑作だが、作中で描かれている犯行はわりと単純で、犯人である主人公は次々にボロを出していく。だからこそ、次第に追い詰められていく様子に夢中になったわけなのだが、読後にまず感じたのは「ミステリは探偵よりも犯人を主人公にしたほうが面白いのではないか」ということだった。
なにしろ、犯人は〝必死さ〟が違う。探偵が事件を捜査するのは、それが仕事であるからだし、ともすれば趣味で探偵業を営んでいるようなキャラクターだって珍しくない。しかし、犯人は捕まってしまえば人生が終わってしまうから、ありとあらゆる手を講じる。緊迫感が漂うのだ。
その意味では、探偵や警察の視点で描いたミステリというのは、一番おもしろい部分をごっそり捨ててしまっていると言えるかもしれない。犯人はなぜ犯行に至る決意をしたのか? そこに至るまでにどのような感情があったのか? 犯行はどのような手順で行われたのか? そういった部分を余すことなく描けるのが倒叙ミステリなのだ。
小説にはSFやホラーなど、さまざまなジャンルが存在する。また、たとえばミステリとひとくちに言っても、そこにはオーソドックスな犯人探しや密室トリックなど、じつに多くのバリエーションが存在している。
日頃からできるだけ多くの作品を読み、小説の基本的な類型を覚えておくことは、自分のなかの引き出しを増やすうえで非常に有効だ。時折、「作家になりたい」とは言うものの、よく聞いてみるとさほど読書の習慣もなく、近年の話題作に手を伸ばすこともほとんどない、という人がいる。小説は誰にでも書けるものだが、これではすぐれた作品は生まれないだろう。
とくに本格ミステリを書こうとするなら、既出のトリックやパターンを押さえておく意味でも、できるだけ多くの作品に目を通すべきだ。それこそ、何百という作品を読みあさり、このジャンルに傾倒した人たちがしのぎを削る世界なのである。
だが、本書の冒頭でも述べたように、小説家を目指しているからといって、小説だけを読んでいればいいかというと、そうではない。映画やマンガの手法に馴染みがない人が書いた作品からは、物語が文字面だけで展開されているような、無機質なムードを感じることがある。エンタテインメントは日々進化しており、小説だけが旧態依然でいい理由はない。各シーンをビジュアル的に想像する能力が不足しているとすれば、小説を書くうえではマイナスだろう。
他のメディアのエンタテインメントの手法を、ひと通り押さえておくことは大切で、とくに一本の映画にはさまざまな表現手法が詰め込まれていると痛感させられる。第一線で活躍している作家に映画好きが多いのは、昔からそうした手法に自然と触発されてきたことが大きいのではないだろうか。
小説はひとりで書くものだが、映画は多くの人の手が加わった作品だ。もちろん中心となるのは監督だが、たくさんのプロたちが集結し、多彩な知見によって練り上げられている。そこから学ぶものは多い。ヒントとなる発見も得られるだろう。小説書きが孤独で完結した世界であるのに対して、映画には視野・視点を広げてくれるところがある。さらに、執筆の合間のリフレッシュにもなる。一人ぼっちの物書きにとっては、いいことずくめと言ってもいい。むしろ、小説が好きであれば自然に関心が湧いてくるジャンルなのではないだろか。
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【どんな本?】
エンタテインメントの作り方を、「アイデア」「プロット」「 キャラクター」「文章作法」「推敲」「技巧」の6視点から考える本。
著者がどのように考えて小説を作ってきたのか、その考えを知る事が出来るため大変貴重。
【まとめ】
著者の考え方を学べる。