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ファシズムもまた、本源的には、経済の再構築のために費やすべき努力を規定したイデオロギーだった。ファシズム以前の経済は人々を階級別に組織していた。そのような経済では利権政治が出現し、利益団体間の交渉や対立が顕著になる。これに対してファシズムが唱えるのは国民の団結であり、連帯と共通の目的に基づく政治である。組織された労働組合が富裕な経営者と交渉する市場経済ではこのような連帯は望めない。しかも世界経済はグローバルな資源の再分配を必要とする。重要なのは、勤勉で酷使される貧しいプロレタリアートという階級ではなく、資源も帰属集団も土地も持たないプロレタリアートという国民なのだという。ファシズムの指導者にとって最重要目標の一つは、自国民の利益のためになるように世界経済を誘導することだった。世界のエリートたち、国境を越えて力を振るうあの「根無草のコスモポリタン」どもの利益になってはならない。
結局のところ、中国とその経済を救ったのはたった一つの要因だった。第一の要因は二つの要素から成り立っている。一つは毛沢東の人民解放軍が台湾征服に失敗したこと、もう一つは一九四九年にイギリスと戦い香港を攻撃する気がなかったことである。その結果、台湾と香港は多くの起業家を中国に供給するとともに、一九七八年以降の中国の発展に必要な資金を中国に潤沢に提供することになった。第二の要因は、鄧小平その人である。一九六六年に追放された時点では、鄧が市場経済への回帰を支持していなかったことはまちがいない。実際、「資本主義を志向する党のナンバーツー」として紅衛兵に「走資派」呼ばわりされたのはまったくの言いがかりだった。だが一九七八年に実権を握った時点では、あきらかに「資本主義を志向する党のナンバーワン」になっていた。そしてこのことが中国に大きな変化をもたらす。最高指導者にのし上がった鄧は、胡耀邦と趙紫陽をはじめ、習仲勳らの改革派を登用して中国経済を立て直し、発展させる政策を次々に打ち出した。また中国政府も、毛沢東が死んでからは近代化への道を歩み始める。毛は中国を立ち上がらせたのは自分だと主張したが、それは真実ではない。その仕事をしたのは鄧だった。
ここでもう一度、ロバート・アレンの経済成長に必要な条件のチェックリストを思い出そう。市場経済の推進、鉄道・運河・港湾の建設、銀行の設立、大衆教育、幼稚産業保護のための関税の導入および技術者集団の育成と長期的比較優位の確保に加え、さらに必要なのがビッグプッシュだった。ビッグプッシュは、きっと成長が実現するという期待感を生み出してくれる。 東アジア地域が開発チェックリストに独自の味付けをしたことはたしかにしても、彼らとグローバルサウスの他国との格差は、やはりリストにあるあたりまえのことを実行したからにほかならない。カール・フォン・クラウゼヴィッツはあの有名な『戦争論』でこう述べている。
「戦争においてはすべてが非常に単純である。だが往々にして単純なことほど困難なのだ。困難が積み重なると、経験したことのない人には想像もつかないような摩擦が生じる」。同じことが、グローバルサウスのほぼ全域���経済開発にも当てはまる。
一九八〇年に新自由主義への転回が始まったときの希望と主張は、市場経済を管理・補足・統制する社会民主主義のやり方はやめなければいけない、政府と社会が(すくなくとも部分的に) 市場原理に従うべく姿勢転換すれば、第二次世界大戦後の黄金時代のときのような経済成長がグローバルノースに復活するというものだった。こうした希望と主張は打ち砕かれた(成長は続いてはいたものの、一九三八~七三年より遅いペースだった。一八七〇~一九一四年よりいくらか速く、一九一四~三八年より大幅に速いペースではあったが)。
所得分布は変化した。女性の包摂に加えてマイノリティのある程度の包摂が進んだ結果、白人男性の所得は平均に追い付かなくなる。さらに重大なのは、新自由主義への転回が、所得と資産を最上位層に移転するという新自由主義のあからさまな目標を達成してのけたことである。 彼らの主張は、こうだ。リッチとスーパーリッチたちにこうしてインセンティブを設ければ、 彼らは一段とがむしゃらに働き、起業家精神を存分に発揮し経済全体をゆたかにする、というのである。この主張は正しくなかったが、それでも所得と資産の移転は実現した。
これは、労働者階級と中流階級の足場を固めていた白人男性にとってじつに悩ましい事態である。一九八○年以降、彼らの実質所得は伸び悩み、女性やマイノリティや外国人から尊敬されなくなって、すくなくとも彼らの実感として無能な人間に成り下がった。さらには、急速にのし上がる(と彼らが想像する)成金たちからもバカにされるようになった。だが格下の者からの尊敬こそ彼らが期待し、当然受けるべきと考えていたものである。ある意味で、状況は彼らに牙を剥いていた。富裕層はもっと富裕になり、価値のないマイノリティの貧困層は福祉給付を受け取っている。懸命に働いている白人男性は、(この見方に従えば)もっと多くを得るに値するというのに、得ていない。こうして有権者の半分以上が体制を信用しなくなった。先行世代が三○年前に謳歌した生活を超えられないなら信用できない、というわけである。
大不況に見舞われ景気回復が思うように進まなくても、政府も政治家もいっこうに気にしていないように見えた。富裕層が政治を牛耳っているのだから当然である。富裕層にしてみれば、 危機など存在しなかった。だが富裕層でない人々、つまりアメリカ全人口のおよそ九〇%はどんどん不利になっていった。彼らにとって、二〇〇七年以降の経済は失望以外の何物でもなかった。彼らは原因を求め、変化を求め、そしてしばしば責める相手を探した。それはもっともである。
新自由主義への転回が世界で始まったのは一九七○年代である。そして二〇〇〇年までにはほぼ完了した。さまざまな形の新自由主義が登場し、世界の政治経済運営に誤った仮定と慣行を植え付けた。
なぜ新自由主義が台頭したのかは謎である。新自由主義への転回は投資の拡大にも起業家精神の高揚にも生産性の向上にも寄与しなかったし、中流層の賃金と所得の伸びを回復することもできなかった。新自由主義の下で導入された新しい政策は、所得と資産の格差を大幅に拡大している。いったいどこに魅力があったのだろうか。新自由主義的秩序が世界���魅了したのは、 冷戦の勝利という手柄を誇示したからであり、受け取るに値しない者は何も受け取れないようにしたからであり、力を持つ者が特大の拡声器を使って、新自由主義的政策で実現できたことはすべて自分たちの手柄だと喧伝したからである。彼らが繰り出した手札はじつに効果的だったと言わねばなるまい。
新自由主義者が勝負に出た手は大きく分けて四つある。第一は、第二次世界大戦後の再グローバ从化である。正確には、一八七○~一九一四年のグローバル化を後退させた政策(これは一九一四~一九五〇年まで維持された)を逆転させた。第二は、技術の大転換である。鋼鉄製のコンテナが一九五〇年代半ばから世界の物流を席巻した。第三は、もう一つの技術の大転換である。 それまで存在していないも同然だった情報技術が世界を制圧した。第四は新自由主義的政策自体であり、その政策と他の三つとの相互作用である。この四つの要因が再グローバル化をハイパーグローバル化に変えた。
一八七〇年に、人類には大きな変化が訪れた。産業研究所と近代的な企業が出現し、海上・ 陸上運賃および通信費が劇的に低下するとともに、圧倒的多数が極貧の中で暮らす状態が半ば固定された経済パターンから、新技術の発見・開発・実用化のプロセスを通じて繁栄が加速し絶えず自らを革新する経済パターンへと移行する。シュンペーターが創造的破壊と呼んだこのプロセスによって、人類の潜在的生産力は一世代ごとに二倍になった。しかしその後は、社会の基盤や支柱はたびたび揺さぶられ、砕かれることになる。私が長い二〇世紀と名付けた一八七〇~二〇一〇年のように長い世紀には、言うまでもなく非常に多くの節目がある。二〇世紀の重要な節目に大きな力を加えてさまざまな事象を引き起こしたのは創造的破壊であり、それに伴う激震や破砕だった。私がとくに重要とみなす節目は二つあり、どちらも長い二〇世紀の中間点で起きた。
第一の節目は一九三○年である。このときジョン・メイナード・ケインズが「孫の世代の経済的可能性」を発表し(第7章参照)、経済的な問題は人類にとって「永遠の問題」ではなくなるとし、「経済の問題が解決されれば」人類は代わりに「真の・・・・・・永遠の問題に直面することになる。それは・・・・・・経済的な必要から自由になった状態をいかに使い・・・・・・賢明に、快適に、裕福に暮らしていくべきなのかという問題である」と述べた。この発言の重要性については、この終章の後段で改めて取り上げる。
第二の節目はもうすこし現代に近く、フランクリン・デラノ・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任し、立ち往生していた政治を動かし、大恐慌という経済の難題を解決するための実験を始めたときである。
私は長い二〇世紀の歴史を四つの要素の歴史として見ている。技術が牽引する成長、グローバル化、アメリカという例外、政治経済的課題を各国が解決するにつれて人類はすくなくとものろのろとユートピアに近づいていくという信頼の四つである。ただしユートピアへののろい歩みでさえ、その速度は肌の色や性別によって均等でも平等でもなく偏っている。それでも長い二〇世紀の間に二度、一度目は一八七○~一九一四年に、二度目は一九四五~七五年に、先行世代がユートピアに近いと考えるような状態に急速に近づいたことがあった。だが一世代すなわち三○年前後におよんだこの二度にわたる経済的黄金郷は、やがて消えてしまう。その理由は、個人、思想、機会に注目して説明することができる。
人類の歩みをつねに背景で、ときに表舞台で牽引したのが、さまざまな発見・開発を続ける産業研究所、技術を実用化・活用する大企業、そしてすべてを調整するグローバル化した市場経済だった。だがある意味で市場経済は、解決である以上にそれ自体が問題だった。市場経済が認めるのは財産権だけだが、人々はポラニー的権利を求める。そこには、互いに支え合うコミュニティ、しかるべきリソースを確保するための所得、確実な雇用を供給する安定した経済を手にする権利が含まれる。つまり長い二〇世紀の間に達成されたあれほどの経済的進歩にもかかわらず、物質的な富はユートピア建設に十分活かされなかったことを歴史は物語っているのである。富は重要な必要条件ではあるが、十分条件にはほど遠いということだ。そしてここで再びケインズの発言、すなわち「いかに賢明に、快適に、裕福に暮らしていくか」というほとんど永遠の問題についての発言が蘇ってくる。この発言は、人類にとって根本的な難題は何かを完璧に表現したという意味で、重要な節目となった。
フランクリン・ルーズベルトは人間が生まれながらに持っている権利として四つの自由を考えた。言論の自由、信教の自由、貧困からの自由(解放)、恐怖からの自由(解放)である。このうち物質的なゆたかさによって満たされるのは、貧困からの自由だけだ。それ以外の自由は別の手段で実現しなければならない。市場が奪い市場が与えるものは、多くの場合、他の欠乏や不足から生じる希望と恐怖に影響されることを忘れてはならない。
ケインズが祝福を与えたハイエクとポラニーの強制結婚によって、第二次世界大戦後の北大西洋諸国で発展した開発志向の社会民主主義は、人類がこれまで実現した中では最もよいものだった。だが社会民主主義は持続可能性テストに合格できなかった。たった一世代でのハイペースの成長のせいでハードルが上がってしまったことが原因の一つだが、それだけではない。 社会の安定だけでは不十分だ、等しい人を平等に、等しくない人は平等でなく扱うべきだとの声が高まったことが大きな原因である。これは、創造的破壊を特徴とするハイエク=シュンペーター型市場経済にも、万人を平等に扱う社会保障制度を特徴とするポラニー型社会民主主義にもできないことだった。
二〇〇〇年を中心とする数十年間には、長い二〇世紀を終わらせるとともに、ユートピアへの人類の歩みにもおそらく終止符を打つ動きが四つ生まれた。第一に、ドイツと日本の非常に革新的で生産性の高い産業がアメリカの技術的優位に挑戦状を叩きつけ、アメリカ例外主義の基盤を揺るがした。この動きが始まったのは一九九○年である。第二は、911事件の起きた 11○○一年に始まった。狂信的な宗教的暴力が再び火を吹き、世界が積み上げてきたものを一気に数世紀逆戻りさせる。知識人は当惑し、「文明の戦争」だなどと言ったが、そんなものはどこにも起きていなかった。第三は、二〇〇八年に始まった大不況である。一九三○���代のケインジアンの教訓が忘れ去られ、政策当局には必要な手を打つ能力も意思もないことがはっきり九年頃から現したとき、それは起きた。第四は、科学によって地球温暖化が指摘された一九八九年頃から現在にいたるまでの間、世界は決然と行動できなかったことである。これらの出来事は複合的に重なり合っていくが、その前と後とでは歴史はあきらかに違う。後の歴史に意味を持たせるためには、新しい物語を書かなければなるまい。
長い二〇世紀は二〇一〇年には終わっている。もう二度と息を吹き返すことはあるまい――― そう確信させる出来事が二〇一六年一一月八日に起きた。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に選ばれたのである。この瞬間に、長い二〇世紀を特徴づけていた四つの要素がもはや修復不可能なほど破壊されたことがはっきりする。北大西洋諸国の経済成長のペースは大幅に鈍化した。一八七〇年以前のペースに逆戻りしたとまでは言わないが、かなり近づいたことはまちがいない。グローバル化は完全に逆転し、もはや公の場で支持する人はわずかしかいないのに、 反対する人は大勢いるという状況だ。