哲学の入門と実践
2020/07/26 23:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:いせ - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学の本をあまり読んだことがない私には歯応えがある本でしたが、読み進めることで行為論についての議論だけでなく哲学をするという営みについて知ることができました。哲学したい人におすすめの入門書だと思います。
投稿元:
レビューを見る
「完璧な安全運転をしていたのに,飛び出してきた子供をはねてしまった」という死亡事故から始まる極限事例をもとに,「行為とは何か」を哲学する。
この事故のどこが極限事例かというと,事故後の運転者の反応が異様だからだ。当初ショックを受け,後悔し,責任を感じていた彼は,友人に「君は悪くない,自分を責めてはいけない」と慰められる。そしてそれを聞いた途端に,彼は「確かにそうだ」と納得して,気持ちをすっかり切り替えたというのだ。友人の慰めの言葉はまったく正しい。この完璧な運転者には法的にも道徳的にも責任は生じないはずだ。それにもかかわらず,この豹変がグロテスクに感じられるのはいかなる理由からなのだろう。それを解き明かすには,「行為」というものの謎に迫っていかなくてはいけない。
文句なしの答えが提示されているわけではないけれど,哲学するとはこういうことなんだろう。自由意思,意図,過失,道徳と倫理。純粋に科学的な見方をすればどれもフィクションに過ぎないということになってしまうが,著者はそれを認めたうえで,それでも哲学的に思考することを選んでいる。その選択はおそらく正しいし,それが人間というものなのだと思う。
投稿元:
レビューを見る
本書は、人間の行為についての考察である。
「本書は、「そもそも行為とは何か」という問題を哲学的に探究する試みである。より具体的に言えば、「何かが自然に起こることと、人が意図的に行うこととの違いは、一体どこにあるのか」という問題や、あるいは、「人はどのような場合に、『それは私がしたことだ』と認めるのか」といった問いの答えを導き出すことを試みる」
本書内で何度か繰り返される「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」というヴィトゲンシュタインの問いが、この本の中で問われている問いなのである。その答えは、それが意識に上るような形でなされたことであるとするならば、「意識がそのように解釈した」ということ自体が後に残ることだと言うことができるかもしれない、というのが私の考えなのだが、著者の考えは少し異なる。そこが面白いところなのかもしれない。
ただ問題と思われるのは、その論考において、著者が「自由意志」の存在を主張するがために、リベットの実験を否定的に取り上げていることである。ここでの議論においては、「意識」についての定義が異なっているのではないかと思える。著者が注意する、似たような仕方で同列に語ってはいけないものを混同するという「カテゴリー・ミステイク」の罠に著者自身がはまっているように見える。ここからはそのことについて少し見ていきたい。
リベットの実験によって、「自由で自発的な意思決定といえども、それに先立つ脳神経活動があること」が明らかになったという主張が多く為されている。また、この実験以降、「意思決定があってから行為が遂行されるという構図は脳神経生理学によって否定されている」と言われることもある」とまとめている。著者は、ここで「「脳の働きから約0.4秒遅れて生じている」と言われているのは、手首を曲げようという意図を意識した瞬間だということである」として、あるレベルまでは正しく認識している。「「意図すること」と「意図することを意識すること」との混同は、リベットの実験を「自由意志が存在しないことの証明」として解釈する論者だけでなく、広く一般的にみられる傾向と言えるだろう」というところもある程度正しい。しかし、もう一歩踏み込むべきであり、「意図したと意識が解釈すること」が実際の「意図すること」の正体であるということだ。
著者は、「結局のところ、リベットの実験は、「意図」とは何かを解明するものではないし、まして、意図と行為の関係性を説明するものではない。少なくともここで言えるのは、この実験によって自由意志が存在しないことが示されたわけではないということである」というのだが、そもそも、リベットの実験がそういった問題を解明するものではないし、自由意志が存在しないと主張しているわけではない。リベットの実験で明確になったことは、意識というものが常に脳の活動の後に来ることであり、必然的に先行する脳の活動を、後から整合的に解釈をする機能を持つということである。多くの場合には意識が先行する自らの行動の解釈に困るようなことはないため、あたかも意識のレベルに��いて自らが決定をして行動したかのように確かに感じられるが、実際には行動が決定されたのは意識のレベルではなく、遺伝子の働きによって構築された脳神経系というハードウェア上にそれまでの人生の中で構築されたソフトウェアやデータベースによって決定されるアルゴリズムに従って行動が決定されるということである。したがって、自由意志を「意識」のレベルで問題とするのか、「意識下」のレベルでの問題とするのか、ということがリベットの実験における自由意志の課題において語るべき問題であり、およそその答えは意識下のレベルで語るべきである。この意味において、著者の議論はカテゴリー・ミステイクの罠にはまっているように見えるのである。
「結局のところ、リベットの実験は、「意図」とは何かを解明するものではないし、まして、意図と行為の関係性を説明するものではない。少なくともここで言えるのは、この実験によって自由意志が存在しないことが示されたわけではないということである」というとき、リベットの実験が決して自由意志を否定するものではない、ということである。
また、著者は「意志」と「意図」について、混同されるべきではないと明確に認識はしている。
「両者は日常的には「意志」という言葉で一緒くたにされることが多いものの、ここでは、「…しよう」という心の働きの方は意図(intention)と呼び、他方、「…したい」という心の働きの方は欲求(desire)と呼ぶことによって、両者を便宜的に区別しておくことにしよう」
しかしながら、長期にわたる「意図」についても、それが意識に上がるときに、意識が主体的にその意図を形成したかのように意識は解釈するが、実態はその意図は脳神経系のハードとそこにインストールされ絶えずアップデートされたソフトウェア(=アルゴリズム)によって産まれてきたものであるとすることに何の矛盾もなく、またそれ以外にありえないのである。その観点でも著者は、「意識」について、わけて考えるべきものと認識するものの、古い観念での認識に囚われているように見られるのである。実際に、その認識は現代社会における法理論や道徳の観点ではシステム成立の前提として「正しい」のであるが、生物学的にはおそらくは厳密な意味では正しい論理ではないのである。
著者は、行動主義や物的一元論者の代表としてライルを紹介して、その主張を挙げる。
「「行為とは傾向性が発現することである」と言うことでライルが主張したいのは、この「傾向性」と「発現」との区別が、従来の物心二元論において「観察不可能な心の働き」と「心の働きによって引き起こされた身体の動き」との区別として誤って解釈されてきた、ということである」
この「傾向性」と説明されているものをソフトウェアもしくはアルゴリズムと言い換えるとわかりやすいだろう。
「現代の、特にアメリカにおける「心の哲学(心にまつわる哲学的探究)」の議論は、科学的な説明と整合するような主張 ─ ─すなわち、物的一元論に親和的な主張 ─ ─に傾斜していると言っていい。心の働きはすべて、脳や神経系の物理的・機械的な働きとして記述し直すことができると、「心の哲学」に従事する多くの論者が主張しているのである。こうした��場は、「心的現象や心的性質はすべて、自然法則に従う自然現象として説明できる」と主張するものという意味で、「自然主義(naturalism)」とも呼ばれている」
これに対して、「本書の立場は、こうした「自然主義」の議論に真っ向から対立するものであり、心の働きは脳や神経系の働きに還元も消去もされなければ、付随もしない、と主張するものである」とするのである。異なる言い方をしている別の個所から引くと「心は非物質的な実体でもなければ、物的一元論者の言うような物質的な実体でもなく、それらとは別の仕方で存在するというのが、本書の立場である」となる。それでは、著者は心をどう捉えるのだろうか。
著者は、「意図と信念こそが行為に直結する心の働きだからである」という...意図と信念もなぜ脳神経系から出てくるものである、と言うことができないのだろうか。
「そもそも自覚的な意識は、身体的動作が引き起こされる直近の因果連鎖 ─ ─何秒~零コンマ何秒という、時間的に狭い範囲の因果連鎖 ─ ─において何ら役割を果たしていない可能性すらあるのである」と書くが、その通りであり、その主張自体はリベットの実験とは何も矛盾しない。
ただ、その帰結として「少なくとも言えるのは、意図すること等の心の働きを脳の働きとして考えるのは困難だということである」というとき、その根拠をどこに求めるのかというのが課題であり、著者の書くようには根拠づけられていない。「「文字通り無数の意図や信念にそれぞれ対応する脳の働きが、我々が何か行為するたびにその前に起こり、持続している」という無理な想定をしない限りは、心の働きを脳の働きとして考えることはできないのである」ーーなぜそれは無理な想定なのだろうか。自分にはまさしくその通りのことが脳で起こっているとしか思えない。したがって、その後の「「行為を成立させる心の働きを脳の働きとして捉えることはできない」ということを、いま確認した」という論理に移行できない。そして、この移行が著者の理論の根幹を為すがゆえに、著者のその後の主張に対しても共感することができない。
なるほど「心臓であれ脳であれ、あるいは身体全体であれ、心の働きとは実は身体(内の器官)の働きに他ならない、というわけである」というときに、情動が身体的な反応であり、それを「心」に含むということは理解できる。しかしながら、それは行動主義の主張を単に頭蓋骨内の脳に限定せずに神経系で接続された身体に拡張しただけであり、まさにそう考えるのが正しいのであって、何も矛盾するところはないように思える。
著者が次のように主張するとき、疑問がひとつ解けたように感じる。
「本書ではここまで、自由意志が存在するという立場に肩入れしてきた。それは、決定論の多くが、心的過程を脳の短時間の物理的過程と同一視することに基づいているからである(たとえば前章で扱った、リベットの実験に依拠した決定論はそうである)」および「ここに至っては、我々はどちらかが正しいという独断は差し控えて、世界を描写する際には自由意志の存在を含んだ語り方と、自然法則に従った物質間の因果連鎖に尽きるものとする語り方という、二種類の語り方が存在しうることを確認するに留め���べきだろう」
つまり、ここから言えることは、著者は「自由意志」と「決定論」を互いに相容れない見解とみなしているということである。ほぼ世の中の物事は物理学上は決定論のように進んでいく、ただし、その結果は複雑性と時間の制約により、事前に計算により知ることはできないのである。この事実こそがトール・ノーレットランダージュが『ユーザイリュージョン』において情報理論からその本を始めた理由でもあり、私が『ユーザイリュージョン』を特に高く評価する理由のひとつである。チューリングの停止性問題を持ち出すことが論理的に正しいかどうかはおくとしても、結局は実際の計算を進めないとその結論は得られないということは実態としては明らかに正しいし、論理的にも正しいと言い切っても差し支えない。私の考えでは、「自由意志」と「決定論」は決して相容れないものではなく、世界は「決定論」に従うが、「自由意志」が存在するように扱ってもまったく変わらない、と言うことができる。
「論理的には決定論が正しいか否かを判断することはできないものの、実践的には、我々が自分たちの行為を決定論的に語ることはできないということである」という言明においてはまったく正しいとしかいいようがない。
著者にとって、第3章で組み上げる行為論において、自由意志を救う必要がどうしてもあったのかもしれない。しかしながら、自由意志を救うために、リベットの実験を否定する必要はないと考えるべきであろう。自由意志の存在とリベットの実験の結果は矛盾しない。もし、あえて言うとするならば、「自由意識」は存在しない、というのがリベットの実験から導かれるべき帰結なのだ。改めて、著者の議論においては、「意志」と「意識」においてカテゴリー・ミステイクを犯している、というように自分には思われる。
結局のところ、著者が自由意志により倫理の議論をしたいがために、責任論の範囲において自由意志を救い出すため、自由意志に対する反論のように扱われているリベットの実験をいったん退けるという所作が必要であったということなのであろうか。著者が本当に世に問いたいのは第3章の「行為の全体像の解明」とした部分であろうが、それは倫理学や道徳よりも、より法理論的な議論に向かっているように見える。実際のところ、自分が理解する範囲において、著者の主眼であろう後半の行為論の議論に関して、リベットの実験から出た論争は何も関係していないと言ってもよい。
論点は、責任ある行為というものを、意識に上る行為だけに依拠させるのかどうかということだともいえる。意識に上るのか、それをしようとしたのか(正確にはそれをしようとしたと意識に上るものとして感じるのか)は、責任論の争点にはならず、意識していようがいまいが、行為に責任には発生するというべきである。行為は、脳というハードウェアにその時点でインストールされたソフトウェア(=アルゴリズム)によって選択されたものであるということが疑いなくできる。意識は、それを事後的に認識しながらも、あたかもその前から意識をしてその行動を自らの意志によって行ったかのように誤認させたものである、というのがリベットの実験から得るべき知見である。その結果は、もし行為責任というも���があるとすれば、意志、意図の有無によらず、行為責任はあるというべきであろう。自由意志の存在を仮定せずとも責任の在りかを含めた行為論は成立するように組み立てられるべきなのではないのかと思うのである。
エピローグに置かれた、漁師のエピソードが印象的である。
「そして、彼はいつの頃からか、仕事の区切り区切りで、仏壇を前に祈るようになった。それは、仏様に自分の仕事や存在を肯定してもらいたいからでも、赦しを得たいからでもない。彼にはもはや、祈ること以外にできることがない。だからこそ、彼はただ一心に念仏を唱えるのである。この個人的な祈りに対する私の個人的な感想を付け加えておくなら、そこには救いがたい悲痛さと共に、最も純粋なかたちの祈りがあるように思われたし、正当化や赦しとは異なる、信仰に独特の「救い」が確かにあるように思われた。また、祈る漁師の姿からは、ある種の崇高ささえ感じられた」
それは論理の問題ではなく、倫理の問題に他ならない。
あえて自由意志の存在の有無を議論するために、本来は自由意志を否定しているわけではないリベットの実験を持ち出した上でほとんど見当違いの論理で否定して、自由意志の存在証明のように使うところは批判されるべきところであるだろう。一方、著者が行う行為論の議論は、自分にその当否を議論する知識レベルがないのだが、おそらくはまっとうである。ただし、その論理を比較するのであれば、リベットや脳神経科学ではなく、マイケル・サンデルなどの議論と比較をするべき領域ではないのかとさえ感じた。
ややもすれば批判的に論を綴ってきたが、著者が言うように「哲学することのそうした大事さを、自分自身で実感してもらうことができれば ─ ─そして、哲学することの楽しさ、面白さも、幾ばくかでも感じてもらえれば ─ ─本書にとってこれ以上の成功はない」とするのであれば、著者の試みは、このように読む側に考察を深めることによって達しているのかもしれない。
よく読んで考えることができるのであれば、面白い論点を扱っているので、読んでみるのは薦めてもよい本かもしれない。
投稿元:
レビューを見る
ぱらっと見て、かなり限定された元ネタで勝負しようとしている感じ。第2章は混乱している感じ。本当にやりたいのは第3章のウィリアムズ流の倫理学なんだろうが、もちろんウィリアムズ先生なのであんまり説得力を感じない。「責任」の話をそれだけでやった方がいいんじゃないだろうか。でもまあ若い人々がこうして自分の理解を世に問うのはよいことだしうらやましい。
投稿元:
レビューを見る
現代行為論の成果を著者自身が咀嚼したうえで、著者みずからの意図的行為および意図せざる行為についての考察が展開されている本です。
ギルバート・ライルは『心の概念』において、物心二元論が「カテゴリー・ミステイク」だとする批判をおこないました。そして彼は、傾向性とその発言という枠組みにもとづく行動主義的な理解に到達しました。著者はこうしたライルの仕事を踏まえながらも、アンスコムの反因果説に歩み寄り、意図は観察と解釈によらず主体に知られているという立場を標榜しています。そのうえで、アンスコムの議論に見られる不明瞭な部分を明晰にすることを試み、言語的コミュニケーションの可能性のうちで意図的行為が理解されるという主張をおこないます。
また著者は、意図せざる行為についてのバーナード・ウィリアムズの議論を参照しながら、「責任」という概念についての詳細な分析をおこない、行為論から倫理学へと議論の舞台を移行していきます。そのさいに、行為者的視点と傍観者者的視点の区別を導入することで、悲劇的な出来事に対してわれわれがいだく「割りきれなさ」の由来について考察を展開しています。
著者は「はじめに」で、「本書の本文は、学問としての哲学に関する予備的な知識が全くなくとも読み進められるように、また、最終的には現在の哲学の議論の先端にまで自然に至ることができるように、工夫したつもりである」と述べており、そのことばにたがわず明晰でわかりやすい議論がなされていて、行為論の入門書としての役割を充分に果たしているように思います。
投稿元:
レビューを見る
第2章までの行為論の概説は著者の見解ではなく、主要な議論の紹介なのだが、この時点でかなり面白い。後書きにある通り、広く一般に読まれるために文章を工夫されているということのようだが、見事に成功していると感じる。参考文献として挙げられている本を手に取りたくなる。
第3章の行為論と倫理学のところは、意図だけでなく運に着目した整理がなされ、前章とはガラッと変わったテーマの感を呈する。著者の関心はこの運の方により重きが置かれているように感じる。倫理学が捨象せんとする運と向き合う倫理学にワクワクした。著者の別の著書も読んでみたい。
投稿元:
レビューを見る
「手を挙げた」から「手が上がった」を引くと何が残るのか? 「やってしまった事」から「起こった出来事」を引くと何が残るのか? これらを検討しながら人の意識、心についてそのメカニズム(そう呼べるだろうか)を解き明かす。
人の心って印象としては心臓を中心とする胸にあるとするのが一般的だけど、科学的には脳にあるわけだし、本書では身体全体にあるとする。違和感あるよね。